LOGIN取り巻きの一人が、さすがに声を上げる。けれど百合絵は止まらない。
「何よ、その目! まさか私を哀れんでるの!?」
「そんなこと――」
百合絵の瞳が怒りで潤む。
「私は選ばれなかったんじゃない!」
「百合絵お姉様……」
「あんたに直之さんを奪われたの!」
百合絵が瑠理子の腕を強く掴む。
「痛っ!」
「突然現れて直之さんに近づいて!」
「離して!」
「あの人に色目を使って、私から奪ったの!!」
ドン、と突き飛ばされ、瑠理子はしりもちをついた。
 
それは淳が大人になるまでに、何度も聞いた声だ。父が亡くなってまだまもないのに、懐かしささえ感じる。 叱られた時も。 褒められた時も。 朝、学校へ行く自分を見送ってくれた時も。 記憶の中にある父親の声が、今ここで流れている。 淳は瞬きもせず、スマートフォンを見つめていた。『資金は、いくつもの関連会社を経由している。偶然とは思えない』 少し雑音が入る。『この金が最終的にどこへ流れているのか、もう少し調べる必要がある』『だが――』 一瞬、声が途切れた。 そして。『上から、これ以上調べるなと言われた』「……!」 淳の表情が変わった。『理由も説明されていない。ただ、この件には触れるなと。それだけだ』「上って……」 淳が小さく呟く。一郎も黙って音声を聞いていた。『俺の勘違いなら、それでいい。だが、もし――』 ザザッ、と大きなノイズが入る。 瑠理子は息を止めた。『もし俺に何かあったら、この金の流れを必ず調べてほしい』 そこで音声は終わった。「……」 誰も何も言わなかった。廊下に重い沈黙が落ちる。 淳は画面を見つめたまま、動かない。「父は」 掠れた声だった。「これを録音した数日後に死んだんですよね」「……そうだ」 一郎が答えた。「母も一緒に」「ああ」「事故で」「そう聞いている」 淳がゆっくり顔を上げた。「じゃあ、これは何なんですか? 『もし俺に何かあったら』って」 声が震えている。「父は、自分に何か起こるかもしれないと思ってたってことですよ
考えあぐねていると、役員会議室の扉が開いた。中から一郎が出てきた。「瑠理子?」「お父様!」 一郎はとても疲れた顔をしている。「どうしてここに?」「記事を見て……」「心配するな」 一郎は無理に笑った。「私は何もしていない」「信じてる」 瑠理子は即答した。「絶対に信じてるから! お父様はなにもしていないって。お父様はいつだって、どんな時だって、正しいことしかしていないもの!」「瑠理子……」「誰かが仕組んだんでしょう?」「それを今調べているところだ」 父の言葉を聞きながら、瑠理子は、淳の様子が気になって仕方がなかった。 淳は一郎を見ている。 何を考えているのかわからない。 怖い。 前世のように、また彼が父を憎み始めてしまうのではないか、と。 だから必要以上に父を擁護するようなことを言ってしまった。変に思われなかっただろうか。「淳」「……はい」「お父様は、絶対、不正はしてない。信じて欲しい」「俺に信じろって言われても……何も知らないですから」 冷たい言葉に胸が痛む。 けれど、それは当然だった。 淳はまだなにも知らないのだから。「そうね……」「だから、一郎社長が不正をしたとか、父との関連があるとか、決めつけるつもりもないです」「淳……」「調べれば
「海原さん、大丈夫ですか?」 女性社員に声をかけられ、瑠理子ははっとした。「……大丈夫です」 今すぐ父のところへ行かなくては!! スマートフォンを返し、瑠理子は立ち上がった。「すみません。私、少し席を外します」「はい」 経営企画部を出ると、自然に足が速くなる。途中から、ほとんど走っていた。「お嬢様!」 後ろから声がした。振り返ると淳だった。「どうしたんですか」「お父様が……」「記事ですか?」「知ってるの?」「社内中で話になってます」 瑠理子はまた歩き出した。「お父様のところへ行く」「待ってください」「待てないわ!」「だったら俺も行きます」 足が止まった。「え?」「一人で行かせられないでしょう」「でも……」「その顔で何言ってるんですか」「どんな顔よ」「泣く寸前です」「泣かないけど……でも、ありがとう」「何がです?」「一緒に来てくれるって」「別に」 淳は前を向いた。「俺も気になるだけです」 その言葉に瑠理子はふと淳を見る。 瑠理子は、ある重要なことに気が付いた。 今の淳は何も知らない。 まだ父を憎んでもいない。 海原グループへ入ったばかりで、会社の内部事情すらほとんど知らない。 だからこの事件を起こせるはずがないのだ。 前世で瑠理子は、この不正疑惑も、父を追い詰めた証拠も、すべて淳が仕組んだものだと思っていた。
嬉しさが込み上げ、瑠理子は思わず頬を緩めた。「……それって」「何ですか」「嫉妬?」 期待を隠しきれないまま尋ねると、淳は一瞬だけ言葉に詰まった。 しかし、すぐにいつもの表情へ戻る。「違いますよ」「でも今、他の男と仲良くするなって」「御堂さんに失礼だと思っただけです」「……え?」 淳は淡々と続けた。「お嬢様は御堂さんと正式に婚約するんでしょう。だったら、他の男に勘違いさせるようなことはしない方がいいです」「……」「それだけです」 すとん、と持ち上がった気持ちが、一気に落とされた。「そう……」 瑠理子は淳の袖から手を離した。 馬鹿みたい。 何を期待していたのだろう。 直之と婚約すると決めたのは自分なのに。「じゃあ、佐藤さんと食事に行くこと自体は別に構わないのね」「……」「私がちゃんとお断りするつもりだったのに」 なにも言ってくれないのね。 でも、追及してせっかくの雰囲気を壊したくない。「それより、お昼食べるんじゃなかったの? 早く行きましょう。私、お腹空いた」 瑠理子は淳より先に階段を下り始めた。後ろから小さなため息が聞こえる。 結局、昼食は二人で食べた。 淳は相変わらず何事もなかったような顔をしていたけれど、瑠理子は少しだけ機嫌が悪かった。 それでも、向かいで食事をする淳を見るだけで嬉しくなってしまうのだから、本当に救いようがない。 その日の午後、事件が起きた。 経営企画部へ戻ってしばらくすると、突然、部内がざわつき始めた。最初は誰かの電話が鳴っただけだった。次に別の社員が立ち上がる。さらに、その隣の席でも。 「えっ?」「これ、本当?」「いつ出た記事?」 あちこちから声が上がる。瑠理子も資料から顔を上げた。明らかに雰囲気がおかしい。 「どうしたんですか?」 近くにいた女性社員へ尋ねる。「海原さん……」 女性は困った顔をした。「何?」「その……」 女性が言い淀むのを見て、嫌な予感がした。「見せて!」 社員が持っていたスマートフォンを受け取った。 ニュースサイトが開かれている。画面に表示されていた見出しを見て、瑠理子の呼吸が止まった。 『海原グループで巨額の不正資金流出か 社長関与の疑い』「嘘……」 記事を開くと、海原グループの関連会社を経由し、数億円規模の資金が不正に
直之という婚約者がいるのだ。 淳を選ぶ未来は、もう二度と訪れることはない―― そう思った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。「……わかったわ」 瑠理子は小さく答えた。淳がこちらを見る。「なにがです?」「近づかないでって言ったでしょう」「……はい」「だから、わかったって言ったの」 なるべく平静な声を出したつもりだった。 でも、自分でも分かるくらい、落胆した声になった。淳も何かを感じ取ったのか、すぐには返事をしなかった。 雨だけが傘を叩いている。「……別に」「え?」「そんな顔してまで、離れなくてもいいです」「どんな顔よ」「今にも泣きそうな顔」「してないわ」「してます」「してません」「……していますよ」 淳が苦笑した。その表情が、少しだけ優しい。「俺も、言い方が悪かったです」「じゃあ撤回する?」「それは……」「しないのね」 瑠理子は少し拗ねるように視線を逸らした。 淳は困ったように眉を寄せる。「だって、お嬢様は御堂さんと婚約するんでしょう」「そうよ」「だったら俺とこんなふうに歩いてたら、御堂さんは嫌に思うじゃないですか」「……そうかもしれないわ。でも」 瑠理子は足を止めた。淳も立ち止まる。「今くらいはいいでしょう」「え?」「ただ一緒に帰ってるだけだもの。それまで駄目って言われたら、私」 言いかけて口を閉ざした。「何です?」「なんで
仕事を終えて会社を出ると、外は雨だった。「あ……」 瑠理子は軒下で立ち止まった。「傘、持ってない」「天気予報見てないんですか?」 隣から淳の声がする。「朝は晴れてたもの」「午後から雨って言ってましたよ」「知らなかった」「でしょうね」 淳が折り畳み傘を取り出した。「入ってください」「え?」「駅まで行くんでしょう?」「一緒に?」「嫌ならいいですけど」「嫌じゃない!」 思わず大きな声を出してしまった。淳が少し驚く。「……そんなに俺と一緒が嬉しいのですか?」「雨に濡れたくないだけよ」「はいはい」「その言い方やめて」 傘が開く。二人で入るには少し小さい。 歩き始めると、自然と肩が触れた。 近い。 とても。 嬉しい。 瑠理子は緊張して、まっすぐ前だけを見る。 けれど淳の方へ傘が傾いていないことに気づいた。「淳」「はい?」「あなた濡れてる」「これくらい平気です」「駄目よ」 傘の柄を持つ淳の手に、自分の手を重ねる。「もう少しそっち」「……お嬢様」「何?」「また近いです」 言われて気づく。ほとんど身体が密着していた。「……仕方ないでしょう。傘が小さいんだから」「そうですけど」 淳の声も少しぎこちない。二人とも黙った。 雨の音だけが響く。 不思議だった。